ギャラリー主催 プロ向け「読める書」の公募展は読めるのか?
読める書は読めるのか?
テーマ「読める書」で公募→個展開催が2ヶ月間
ART SHODO MDP SELECTIONは現代アートとしての書「ART SHODO」を担う新たなアーティストとの出会いと、活動の流布を目的とした公募展です。
今回のテーマ「読める書」とは、「言語としての書」という、何をどのように書いたものか、という本来書家が避けては通れない、その在り方を問うものとなっています。
MDPギャラリーの審査は、前回、わよう書道会主催の「おもしろい書展」の審査をしていただいた田中千秋氏(GALLERY SCENA)、私は面識がいないですが、田中さんがびっくりした若い土田祥ノ介氏(YUGEN Gallery)の2名を迎えて審査をいます。
田中さんは、おもしろい書展の後に以下のブログを書かれていました。
「読める書」が読めなかった審査の話
ブログをまとめると以下のようになります。
再び「読める書」で公募展開催
田中さんは「読める書」が書道において重要な要素と考えていますが、プロ候補のアーティスト側から「読める書」が出品されなかったことで、最先端の書道活動をしている人からも「読める書」の人気が高くない事がわかっていました。
しかし、再びMDPギャラリーで「読める書」テーマで公募展を開催したのです。
テーマ「読める書」の公募作品(2次審査)
私が展示を見に行ったのは2次審査(2024/11/1~)の展示です。
作品をご覧になればわかりますが、一般人が思う「読める」作品はほとんどなく、テーマを知らなかったら「読める作品」ということは伝わらないのではないかと思います。
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読める書はカッコ悪いという風潮がある
おもしろい書展(私が主催)、MDP「読める書」公募展(ART SHODO主催)を見て、私が取り組んでいる「読める書」というテーマが可視化されている気がします。
前述の田中千秋さんのブログを引用すると
「読めてしまう」と小学校のお習字とか大人世界のビジネス「美文字」とか、ラーメン屋のメニューみたいな「根性文字」になっちゃうと。
あるいはまあ、大河ドラマのタイトル文字になっちゃうと。個性出しにくいと。
現代美術としてのアート書道は、どうも、しかしそのへんの微妙な矛盾とか滑稽さを全部避けて、「読めない」ところに全員避難している。令和時代のいわゆる「前衛書道」も(ちっとも前衛じゃないのだけど)、「読めない」とカッコイイ、というところに避難している。
「読めるように書くと”古典の技術”が使えず、素人に対するアドバンテージが消えるため、読めなくなるが古典の技術で素人向けにカッコよく見せたい」と思っているとギャラリストたちには見透かされた”カッコ悪い”状態と指摘しています。(意訳し過ぎかな?)
読める書はチャンスがあると再認識
ここに応募している方は、書道業界でも最先端の人たちです。その方ですら読める書を、このように解釈しているということは、読める書は大きなチャンスがあると思います。
アートで評価されている作品の共通点は「唯一無二」という点です。
日本のビジネスパーソンや受験の評価と真逆です。
学んだ技術を使う=先人がいる=唯一無二じゃない のです。
今回、1次審査を通過した作品は、それぞれコンセプトがしっかりしていますが、皆が「読める書」を避けることから考えても、読める書は大きな、強いコンセプトと思います。(まだ誰も評価してないので未知数ですが)
唯一無二のスタートラインに立った人がいる
今回、テーマ「読める書」で、1人だけ素直に?読める作品を出した人がいます。
この作品を見て書家は「素人」と思うかも知れませんが、この中では一番テーマに沿っており、唯一無二の存在となっています。
1次審査の段階で場違い感があったのに、2次審査に選ばれて、これを出しただけでアーティストとしての胆力を感じます。
実は、彼は、私が主催した「おもしろい書展」にも出品し、その後、書展での講評や田中さんのブログなどから情報を吸収し、数ヶ月で、誰よりも本質的なアプローチをしています。
私は、読める書は、全員、彼のような作品から始めないと独自の読める書には到達しないと仮説を持っています。(ギャラリストの評価や売れるかは別の話)
でも、書道愛好家の方は、幼少期より投資して得た技術を「捨てる」ことができません。守破離の「守」をしてしまうのです。
それなら、はじめから技術を持ってない彼のような人が、早くスタートラインに立ってしまうのです。
読める書は読めるところが始める
当たり前のことを書きました。
読める書は現代文を書きます。平安時代の古筆でも中華の法帖にも現代文はありません。
そもそも、平仮名の50音図は1900年明治制定なので、それ以前には(厳密には)存在してないのです。
現代文と古文、漢文は全く違うものです。
明治時代に、古文が現代文として採用されず、新たに現代文を作った理由があるのです。
現代文の読める書は、最先端の人でも、まだまだ素人との差は誤差くらいしかありません。
本質を見て、早くアプローチしていくと、アーティストどころか、文化偉人として書道業界に名前が残るかもしれません。
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