松山智一氏 10万円の『うまい棒』が問う、現代アートと消費社会の危うい関係

驚愕!11万円のうまい棒が現代アートに?

先日、SNSを賑わせた衝撃的なニュースがありました。普段はコンビニで15円で買えるお馴染みの「うまい棒」が、なんと11万円で販売され、わずか数時間で完売してしまったのです。そのうまい棒は「現代アート」として扱われ、注目の現代アーティスト松山智一氏による作品として世に出たもの。いったい、なぜこんな価格がついたのでしょうか?

この事例を通して、現代アートと消費社会の複雑な関係を紐解いていきます。現代アートがどうして、こんなにも高額な価値を持つようになったのか?そして、消費社会の中で「アート」とは何かが問い直されるべきではないか?




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アート市場の「虚構」を暴く!11万円のうまい棒の真実

「11万円のうまい棒」と聞いて、驚いた方も多いかもしれません。しかし、この現象にはアート市場特有の「虚構」が絡んでいます。松山智一氏の作品「11万円のうまい棒」を例に、その価値の背後に隠された3つの層を解説します。

1. 物質的虚構:パッケージを変えただけ?

うまい棒のパッケージは、特に目新しいデザインに変えられただけ。物理的な変化は、ほぼありません。しかし、この「変化」をどれほど大きな価値に結びつけられるかがアート市場の面白さです。パッケージのデザインがアートと化すことで、通常の消費者向け商品がまるで価値のある芸術品のように扱われるわけです。

2. 権威的虚構:アーティストの「名」が生む価値

そして、アーティスト松山智一氏の名前。その一言で、駄菓子が11万円の価値を持つことになります。アートの世界では「アーティスト」というブランドが重要な役割を果たします。松山氏がこの作品を発表した瞬間、うまい棒の価値は物理的な価格から、アーティスト自身の権威によって評価されることとなります。

3. 資本的虚構:限定販売が生む希少性

さらに、今回のうまい棒は限定50本という販売数で、市場の需要と供給のバランスを操作しました。これがいわゆる「人工的希少性」です。限定という言葉が、商品を特別なものに見せ、消費者の欲求を駆り立てます。こうした資本の力が、現代アートの市場を支配しているとも言えるでしょう。

「アートの自己参照ループ」が現れる瞬間

現代アートが特定の文化的文脈に閉じ込められ、一般の観客との対話が希薄になる現象を、「アートの自己参照ループ」と呼びます。この問題は、「11万円のうまい棒」においても見られます。

実は、うまい棒の販売会社「やおきん」は、公式サービスとして「オリジナルうまい棒」があることは、ファンの間では知られており、今回のコラボの新規性、貴重性は薄いものとなります。


さらに、アクテック社とやおきんさんは、うまい棒ケースをクラウドファンディングで行っており(現在も27,500円で販売中)、「参加型物語消費」の駄菓子の成功例の1つでした。クラウドファウンディングの支援者たちは単なる商品ではなく、文化的な物語に参加する体験を求めていたのです。

アクテック社と松山智一氏、2つの「自己参照」

アクテック社が販売した「うまい棒ケース」。これは、駄菓子文化に根ざしつつも、アクテック社の技術やブランドが評価の中心となっていました。しかし、松山智一氏の「11万円うまい棒」は、全く異なる文脈に閉じ込められています。うまい棒が本来持っていた「駄菓子としての価値」はほとんど無視され、アーティスト自身のブランドがすべての評価基準となっています。




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「アートの自己参照ループ」が2度起こったレアケース

今回の事例は、美術評論家ハル・フォスターが警告する「アートの自己参照ループ」の典型例の2重重ねと言えるかもしれません。「アートの自己参照ループ」とは、作品が外部の社会や文化との関係を失い、ブランドやアーティストの文脈内でのみ評価される現象を指します。このループが発生すると、作品の価値はその文脈に固定され、一般の観客との対話が希薄になるそうです。

1回目:アクテック社の「うまい棒ケース」

アクテック社が製造した「うまい棒ケース」は、外部の社会や文化との関係が部分的に薄れています。この作品は、主にアクテック社の技術、ブランディング、そしてアイディアの文脈内で評価されます。特に、ヤオキンの公認を受けているため、うまい棒の駄菓子文化とのつながりは残っていますが、消費者はその商品の独自性や価値を、アクテック社の権威やブランドイメージに基づいて判断することが多くなります。

2回目:松山智一氏の「11万円 うまい棒」

松山智一氏の「11万円 うまい棒」は、外部の社会や文化、特にうまい棒の歴史や知名度、駄菓子文化との関係を失っています。この作品は、松山智一氏というアーティストのブランドの文脈内でのみ評価され、同じく公式の「オリジナルうまい棒」を作っていたとしても、彼の作品には同じ価値が与えられません。

項目アクテック社の「うまい棒ケース」松山智一氏の「11万円 うまい棒」
外部社会や文化の関係部分的に薄れている失われている
駄菓子文化との接続ヤオキン公認で残っている失われている
評価の文脈アクテック社の技術、ブランディング、アイディア松山智一氏のブランドの文脈内で評価
消費者の判断基準アクテック社の技術、ブランドイメージに基づくアーティストのブランドに基づく
作品の価値狭い範囲に閉じ込められている可能性あり狭い範囲に閉じ込められている

このように、アクテック社の「うまい棒ケース」と松山智一氏の「11万円 うまい棒」は、それぞれ異なる文脈でアートの自己参照ループが発生しており、作品が持つ本来の価値が狭い範囲に閉じ込められていることが示されています。

日本特有の《床の間化》現象と聖域アートの矛盾

現代アートは、しばしば特定の空間や文脈に閉じ込められ、《床の間化》という現象が生じます。この現象は、アートが一般社会との接点を失い、一部の人々によって文化的価値が独占される状況を示しています。特に、日本文化においては、アートが「床の間」という専用スペースに収められ、エリート的な存在になりがちです。

このような背景の中で、松山氏の「11万円のうまい棒」は、大衆文化のエリート化の一例として浮かび上がります。対照的に、チームラボはアートの大衆化を実現した企業ですが、両者に共通するのは、権威や資本による「中抜きアート」の懸念です。多くの人々が、彼らの作品が既存の文化資源を利用しているだけだと感じてしまうルートが見えてしまうのです。

私の無責任な思いとしては、メーカーの技術革新によるプロジェクター映写の動く浮世や、公式の「オリジナルうまい棒」を11万円で販売するのではなく、日本の未来のアートに何かを残すような、挑戦的で新たな創造を期待してしまいます。

《問いの放棄》が招いた機会損失

挑戦されなかった可能性

デュシャン(30歳)はレディメイド作品「泉(1917年)」(男性便器を倒しただけ)で、アートとは何か、そしてアーティストの役割とは何かを問いかけた

私なら…日本のデフレを世界のインフレによる格差の象徴として活用する

松山氏の「11万円のうまい棒」企画は、「広く親しまれている商品にアートの概念を用いて新たな価値を創出できるのか?」という問いを投げかけています。しかし、彼はもはや美大生のように「問いかける側」ではなく、日本のトッププロフェッショナルとして「答えを出す側」にいると感じます。
デュシャンが「泉」を発表したのは30歳の時ですが、今の時代は情報が速く流れています。アラフィフ(48歳)の松山氏には、より高い期待が寄せられていまいがち。その期待に基づく批評が少なく、既存の美術メディアは称賛に偏りを感じます。
もし私が同じコンセプトでオリジナルうまい棒を使うとしたら、「1本15銭(現在の価格の1/100)」で販売するかもしれません。松山氏の立場であれば、1本11万円で売れる可能性はあるでしょうが、それは「現代アートあるある」で新規性が薄く、問いかけが弱く(幼く)感じます。
代わりに、昨今の欧米のインフレと日本のデフレを比較するアイコンとして使える文脈を生み出せたかもしれません。現在、1円以下の硬貨は使えず、15銭なら1本での販売自体ができません。また、米国が1セントコインの製造を中止する決定をした場合、さらにこのアイデアに追い風が吹くでしょう。(コンセプトはもっと詰める必要があります)



現代アートは「権威」か「挑戦」か?その本質と価値とは?

現代アートの本当の価値とは、単に市場に迎合し商業的に成功することではありません。本来、アートは「既存の価値体系への批判的介入」としての役割を果たすべきです。もしアートがただの商業的成功を目指すだけであれば、社会的メッセージやアートが持つ本来の力は薄れてしまいます。

もちろん、松山智一氏の作品に込められた意図—消費社会への皮肉や、アートの価値そのものを問いかける姿勢—は、評価に値します。しかし、その意図が果たして一般の人々にどれだけ伝わっているかという点には疑問が残ります。


日本文化の「大衆性」と西洋アートの「権威性」を融合させる現代アートの問題点

松山氏の「11万円のうまい棒」が示す本当の問題は、現代アートが依然として「床の間」に閉じ込められ、資本と権威の「共同制作」に陥っている点です。うまい棒が本来持っていた「大衆性」—つまり、誰もが手に取り、楽しめる庶民的な価値—を、アート市場における「権威性」に転換する手法には疑問が残ります。
現代アートが失ってしまった「民主性」や「参加性」の力を、再び取り戻す方法はあるのでしょうか?日本文化の「大衆性」を、西洋アート文化の「権威性」にロンダリングする手法に代わる、もっと革新的なアイデアが日本から発信できたら最高ですね。


あなたにとってアートとは何ですか?11万円のうまい棒に込められた価値とは

現代アートは単なる視覚的な美しさを超えて、社会や文化に対する鋭い問いかけを含むべきです。次にコンビニで「うまい棒」を手に取る際、それは単なる「駄菓子」ではなく、「アートの可能性」を感じさせるものになるかもしれません。

あなたはこの「11万円のうまい棒」に、どんな価値を見出すのでしょうか?現代アートが持つべき本質的な役割について、もう一度考えてみませんか?


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