読売新聞「誰もが読める」→読めない

誰もが読める書が読めない事案




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「”誰もが”読める」と踏み込んだ表現をしてるけど…

第35回 読売書法展のサイトを見ていて新聞記事のリンクがあり見てました。
すると以下の 新聞記事がありました。
2018年 第35回 読売書法展 新聞記事

読売書法展 審査部長

審査部長 黒田賢一氏

読売書法展 審査部長 黒田賢一氏が「誰もが読める書『調和体』」と書いていました。
今までは「読める書」と言う表現だったと思うのですが、今回「”誰もが”読める書」と従来より踏み込んだ表現をしています。
その結果、調和体で最も高い賞を受賞したのが、冒頭の画像でも使用した以下の作品です。(作者に対しての批評ではありません。)

ごめんなさい、読めません

さすがに、この作品を「誰もが読める」という調和体部門内で最高位の入賞をさせるのは問題があるのではないでしょうか?
これが最高位になると来年も読めないものしか出品されません。
この負の連鎖のような状況は変えられないのでしょうか?

引用 2018年「調和体部門」読売準大賞 位田惠彬さまの作品

引用 2018年「調和体部門」読売準大賞 位田惠彬さまの作品

新規加入者を増やすべきなのに…一般人と意識の乖離が進む

読売書法展 山本悠雲氏

さらに記事内で山本悠雲氏が追い打ちで「読めることが大切」と書いています。
読売新聞が、これを「読める書」記載することは、読売傘下の方々はもちろん、一般読者にも「自分以外は読める」と誤解をする人もいるかも知れません。
書道の裾野を広げないといけない状況なのに、一般人と乖離する文化を作り上げるのは、他に多くの趣味の選択肢がある現在、衰退を加速させると思います。

「誰もが読める」と言うなら筆記体をやめるしかない

「誰もが読める」とまで踏み込んでいる背景は、なにかあるのかなと想像すると、オリンピックが意識されているのではないかなと思います。
このサイトを見ている方は、日本の書道の主体は、中華式の唐様なので、日本語を軽視してきた歴史があります。
そして、昭和初期から、中華式の考え方で日本語を芸術処理しても読める書は作ることができませんでした。
新聞紙面を使って「誰もが読める」と強調しても、無理筋ではないでしょうか?


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